水俣の歴史

   昭和以前   
 水俣石飛地区には、2万数千年前の旧石器時代から、わたしたちの祖先が住んでいたことが、近年の発掘調査でわかっています。そして時代を経るにつれて、南福寺(縄文時代) 、初野、上野(弥生~古墳時代) などの低地へ移住していったことが、遺跡によって推察されます。水俣の地名が記録に現れるのは延喜式(905年~927年)で、水俣と仁王に駅家(うまや) が置かれたとあり、そのころから交通の要衝だったことがうかがわれます。

 寛永11年(1634年) 細川氏領となった頃は、水俣手永として陳内、浜、長野、小津奈木、深川、葛渡、袋の7庄屋村と86の小村とからなっていましたが、明治6年陳内村列(31ヵ村) 、浜村列(15ヵ村) の両行政区が布かれて、それぞれに戸長役場が設けられました。

 明治22年市町村制の施行にともない、両列が合併、水俣村( 当時人口12,303人) が誕生、村役場が陣内に置かれました。熊本県の最南端にあって鹿児島県との境に接し、三方は矢城山、大関山、矢筈岳等の山々に囲まれ、わずかに水俣川河口に開けた平地が八代海(不知火海) に面しています。遠く天草の島々を望む地勢からか、人情こまやかで文化的豊穣の地として蘇峰、蘆花の文豪を輩出しました。産業の面では小さな農漁村に過ぎませんでしたが、この頃から港としても大牟田、島原方面と鹿児島県大口 、山野方面(当時金山などがあった)の諸産物の集散地となり、次第に活気づいていきました。

 明治41年(1908年)、日本窒素肥料(株)水俣工場が設立されてからは人口も急速に増加し、工業都市として発展の途を歩むこととなります。

 昭和24年(1949年)4月市制が施行され、31年(1956年)9月には久木野村と合併し、人口は5万人を超え市勢は拡大の一途を歩み、同年水俣港が貿易港として指定される等、国際的展望のもとに水俣市発展の転機をむかえました。

 当時、地元の工場で作られていた製品原料は、テレビ・冷蔵庫・洗濯機など国民生活を支えた三種の神器や様々な産業分野に用いられており、水俣のみならず、日本全体の工業国化と発展、国民生活の合理化・利便性を支えていました。
 一方、昭和31年5月に水俣病が公式確認され、水俣病に起因する被害は、健康被害、環境汚染にとどまらず、患者や地域に対する差別、偏見等も引き起こすなど、種々の問題が地域社会を疲弊させていきました。


   平 成   
 水俣市は長期に渡りこれらの問題と向き合ってきましたが、平成に入り、環境再生・地域再生の息吹が芽生え、これ以降単なる公害都市からの脱皮にとどまらない、創造的なまちづくりに取り組みました。

 平成2年(1990年)3月、水俣湾公害防止事業が完了し、水俣湾に58haの埋立地が完成しました。その後、環境と健康をテーマに障がい者をはじめ、誰もが集い、憩える緑の公園として整備が進められ、「エコパーク水俣」という愛称で平成19年6月に完成しました。

 また、平成9年(1997年)には、水俣湾の安全宣言がなされ、仕切り網が撤去されました。

 平成6年(1994年)の水俣病犠牲者慰霊式において、市長が反省の意を表明したのをきっかけに、もやい直しが進みました。平成7年(1995年)の水俣病政府解決策により、水俣病の裁判や交渉は次の年までにほぼ終結し、水俣病問題は一応の決着をみることができたと考えられていました。しかし、平成16年(2004年)10月の水俣病関西訴訟の最高裁判決で、国と熊本県の行政責任が確定したことを契機に、認定申請者が急増したため、平成21年(2009年)に、「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」が施行され、国の認定基準よりも広く被害者を救済しました。市民は一日も早い水俣病被害者救済を含む、抜本的な解決と疲弊した地域の振興を望んでいます。
 また一方で、水俣市は経済成長の過程で発生した水俣病の教訓をもとに、平成4年(1992年)に日本で初めて環境モデル都市づくり宣言を行いました。以後、我が国でもいち早くごみの分別・減量に取り組むとともに、水俣オリジナルの家庭版・学校版等の環境ISO制度、環境マイスター制度、地区環境協定制度などを立ち上げ、リユース・リサイクル、省エネ・省資源、市民の森づくりによる地球温暖化防止活動や環境保全活動に市民協働で取り組んできました。これらは、小規模な自治体ならではの多額の経費を必要としない取り組みということで、これまで国内外の多くの自治体や環境団体のモデルとなっています。また、水俣には環境を学ぶために、多くの人が訪れてくれるようになりました。さらに、平成13年(2001年)には国のエコタウンの承認を受け、以後リサイクル関連の企業等の立地が進みました。

 このような市民一人ひとりが築き上げてきた本市の環境モデル都市づくりが高く評価され、平成20年(2008年)7月には国の環境モデル都市のひとつに認定され、平成23年3月には環境NGOが主催する「日本の環境首都コンテスト」において、日本で唯一の「日本の環境首都」の称号を獲得し、ふるさと水俣の大きな誇りとなっています。

 平成25年(2013年)10月地球規模で水銀汚染を防止しようと「水銀に関する水俣条約外交会議」が熊本市と水俣市で開催されました。水銀の被害のない世界を目指すため、水俣の教訓を発信し、「水銀に関する水俣条約」が採択されました。同月、「第33回全国豊かな海づくり大会くまもと」が熊本県内で開催され、水俣市の放流行事には天皇、皇后両陛下が臨席されました。両陛下は、水俣病資料館も視察され、語り部の話に耳を傾けられました。

 平成28年(2016年)4月に、水俣の未来を創る知の連携拠点として、水俣環境アカデミアを開設しました。同月に熊本地震が発生し、同年12月から市役所機能を仮庁舎へ移転しました。

 交通面では、平成14年(2002年)に九州新幹線新水俣駅が開業し、さらに平成31年(2019年)3月には高規格幹線道路である南九州西回り自動車道の水俣インターチェンジが開通するなど、九州各方面へのアクセスが格段に向上しました。


   令 和   
 令和2年(2020年)7月、本市がこれまで取り組んできた環境に配慮した施策や取組を踏まえ、「経済」・「社会」・「環境」の三側面の統合的取組により「自律的好循環」を構築し、未来にわたって豊かで活力ある地域社会を創造していこうとする提案内容が評価され、国の「SDGs未来都市」に県内3番目の自治体として選定されました。今後もSDGsの理念に基づく地域経営を進め、将来の都市像「みんなが幸せを感じ 笑顔あふれる元気なまち 水俣」を目指し、市民一体となってまちづくりを進めます。